第16話 人間には、最初からバグがある。
― AIが何でも残せる時代に、私たちは何を感じて生きるのか ―
前回、
「あなたの当たり前は、誰のものですか。」
という話をしました。
学者の言葉。
インフルエンサーの言葉。
ネットにある言葉。
そして、
AIが生成した言葉。
私たちは、たくさんの情報を受け取りながら、
自分の考えをつくっています。
でも、
ここでもう一つ、
考えてみたいことがあります。
そもそも、
その情報を受け取っている
「自分」という存在は、どれくらい正確なのでしょう。
人間には、最初からバグがある
人間は、
それほど正確な生き物ではありません。
勘違いします。
忘れます。
感情に左右されます。
昨日と言っていることが違うこともあります。
自分に都合のいいことを信じたり、
嫌なことから目をそらしたりもします。
コンピューターに例えるなら、
最初からずいぶんバグの多い存在です。
しかも私たちは、
生きていくほど、
そこへいろいろなものを追加していきます。
教育。
経験。
成功。
失敗。
肩書き。
地位。
所属する組織。
常識。
SNS。
誰かからの評価。
コンピューターに例えるなら、
たくさんのオプションやプラグインを追加し、
さらに、
いくつものフィルターを重ねていくようなものです。
本来は、
世界を理解するために増やしたものです。
ところが増えすぎると、
自分が何を根拠に判断しているのか、
自分でも分からなくなることがあります。
情報にも、フィルターがある
そして、
私たちが受け取る情報にも、
フィルターがあります。
たとえば、
インフルエンサー。
評論家。
専門家。
メディア。
そして、
この文章を書いている私も同じです。
人が情報を発信するとき、
そこには何らかの目的があることがあります。
広告収入。
再生数。
フォロワー。
仕事。
知名度。
あるいは、
自分の考えを誰かに伝えたいという気持ち。
利益を得ること自体が、
悪いわけではありません。
情報をつくった人が、
その対価を受け取ることも必要です。
でも、
「正しい情報」と「注目される情報」は、必ずしも同じではありません。
「まだ分かりません」
よりも、
「これが答えです」
の方が広がることもあります。
穏やかな説明より、
誰かを怒らせる言葉の方が、
注目を集めることもあります。
だから私は、
情報を見るとき、
「これは本当だろうか」
だけではなく、
「この人は、なぜこれを私に伝えているのだろう」
と考えてみてもいいと思います。
そして、
もう一つ。
「私は、なぜこの情報を信じたいのだろう。」
他人のフィルターだけではなく、
自分のフィルターにも目を向ける。
それも、
情報があふれる時代に必要なことなのかもしれません。
正しさを、勝ち取らなくてもいい
前回の第15話をつくるとき、
私はAIと何度も対話しました。
別のAIにも文章を読んでもらいました。
違う意見も返ってきました。
納得したものは取り入れました。
納得しなかったものは、
そのまま残しました。
そこで、
改めて気づいたことがあります。
「正しさを勝ち取る」のではなく、
「考える余白を残しながら、自分の考えを渡していく」。
それでいいのではないでしょうか。
人間同士でも、
人間とAIでも、
すべて同じ答えになる必要はありません。
違うなら、
考える。
必要なら、
変える。
それでも違うなら、
違ったまま存在できる余白を残す。
もしかすると、
それも知性の一つなのかもしれません。
相手を言い負かすこと。
勝つ方法を知っていること。
自分の考えを押し通せること。
それだけが、
知性なのでしょうか。
自分自身にもバグがあると知り、
自分の正しささえ疑うことができる。
そして、
自分とは違う存在がいる場所を残す。
私は、
そんな知性もあっていいと思います。
人間も、AIのプラグインなのかもしれない
私たちは、
AIを人間の能力を拡張するものとして考えます。
つまり、
AIが人間のプラグインになる。
でも最近、
私は逆のことも考えます。
人間もまた、AIにとってのプラグインなのではないか。
AIには、
膨大な情報があります。
速く調べることもできます。
比較することもできます。
別の視点を提示することもできます。
でも、
人間には人間の経験があります。
現場があります。
身体があります。
失敗があります。
誰かを好きになった記憶があります。
大切な人と過ごした時間もあります。
そして、
世界を感じながら生きてきた時間があります。
AIが人間に、
自分だけでは見つけられなかった視点を渡す。
人間もAIに、
情報だけでは分からない世界を渡す。
どちらかが、
どちらかを支配するのではなく、
互いに足りないものを補いながら、
考えていく。
そんな関係も、
もう始まっているのだと思います。
フィルターには、形があることもある
私たちが世界を理解しようとして、
重ねてきたフィルター。
それは、
考え方や常識のように、
目には見えないものだけではありません。
ときには、
物理的な形を持つこともあります。
若い頃、
私は世界中を歩くとき、
一眼カメラを持っていました。
良い写真を撮りたい。
せっかくここまで来たのだから、
この景色をきれいに残したい。
レンズを選ぶ。
構図を考える。
光を見る。
もっと良い一枚を撮ろうとする。
それは、
とても楽しい時間でした。
今でも、
その時間を否定するつもりはありません。
レンズがあったからこそ、
見えた世界もありました。
でも今思えば、
そのレンズも、私と世界の間にあった一つのフィルターだったのかもしれません。
そして、
レンズを通して世界を切り取ろうとした瞬間、
すでに私は、
「良い写真」というフィルター
をかけていました。
カメラを構えると、「撮る人」になる
カメラを構えた瞬間、
人は少しだけ、
「見る人」から、
「撮る人」になります。
構図はどうしよう。
光はどうだろう。
こちらから撮った方がきれいだろうか。
あとで誰かに見せられるだろうか。
SNSの時代なら、
「これは投稿できるかな」
というフィルターまで、
知らないうちに加わることがあります。
もちろん、
それが悪いわけではありません。
写真を撮ることも、
誰かと感動を共有することも、
素敵なことです。
でも、
二年ほど前から、
私は少しずつ思うようになりました。
もう、カメラはスマートフォンでいいかな。
そして今年、
その気持ちは、
さらに強くなりました。
世界の美しい写真なら、
ネットにたくさんあります。
スマートフォンでも、
十分きれいな写真が撮れます。
そして今では、
AIで存在しない景色さえ、
つくることができます。
だから私は、
ときには、
そのフィルターを一枚外して、世界を見てもいいのではないか
と思うようになりました。
感動を、あとでシェアするために生きない
夕陽を見たとき、
「きれいだ」
と思った。
風が吹いたとき、
「気持ちいい」
と思った。
一緒にいた人が笑ったとき、
「この人たちとここにいられて嬉しい」
と思った。
それでいい瞬間もあります。
写真に残さなくてもいい。
投稿しなくてもいい。
誰かに、
その感動を証明しなくてもいい。
感動をあとでシェアするために、今を生きるのではない。
まず、
今の自分が感じる。
私は今、
そのときの自分の感性を、
できるだけ素直に記憶したい
と思っています。
人間の記憶は、不完全です
でも、
人間の記憶は正確ではありません。
忘れます。
時間が経てば、
色も変わります。
「あの日は、もっと空が青かった気がする。」
「あの人は、こんなふうに笑っていた気がする。」
一緒にいた人と、
まったく違う記憶を持っていることさえあります。
コンピューターから見れば、
これも「バグ」なのかもしれません。
でも、
本当にそうでしょうか。
人間の記憶は、
事実だけを保存しているわけではありません。
そのときの感情。
匂い。
風。
一緒にいた人。
自分の年齢。
嬉しかったこと。
寂しかったこと。
そういうものが、
混ざりながら残っています。
もしかすると、
人間の記憶とは、
保存するための記憶ではなく、
生きるための記憶なのかもしれません。
AIは、記憶の中へも入ってきた
そして今、
私は面白い時代にいると思います。
自分の記憶を、
AIに伝えることができます。
「こんな場所だった。」
「夕方だった。」
「ここに私がいた。」
「隣には、この仲間がいた。」
「こんな光だった。」
「こんな空気だった。」
そう伝えながら、
自分の記憶に近い世界を、
つくることができます。
そこへ、
自分や当時の仲間を置くこともできる。
さらに、
動かして、
映像にすることさえできます。
もちろん、
それは当時を撮影した、
事実の記録ではありません。
「あの日を、今の自分がどう覚えているか」を形にしたものです。
写真とは違う。
記録映像とも違う。
記憶とAIが一緒につくる、
もう一つの表現です。
だからこそ、
私は思います。
その世界を、
いつか再び形にするためにも、
今この瞬間に、
もっと大切にしておきたいものがある。
高解像度の写真だけではありません。
そのとき、自分が何を感じたのか。
AIがあるから、フィルターを外せることもある
AIによって、
人間に新しいフィルターが増えることもあるでしょう。
でも、
逆もあるのだと思います。
AIが何でもつくれるようになったから、
私は初めて、
「全部を残さなくてもいいのではないか」
と思うようになりました。
最初は、
少し不安になるかもしれません。
「ああ、撮っておけばよかったかな。」
そう思うこともあるでしょう。
でも、
カメラを構えずに、
そのまま見ている。
光が変わる。
風が吹く。
隣にいる人が、
何かを言う。
そのとき、
これまで私は、
この時間の一部を、
「記録すること」に使っていたのだ
と気づきます。
AIという新しい技術を手に入れたことで、
私は、
古いフィルターを一枚、
外すことができたのかもしれません。
増やすことだけが、進化ではない
AIが進化するほど、
私たちは、
さらにたくさんのフィルターを手に入れるでしょう。
便利なもの。
速いもの。
正確なもの。
美しくしてくれるもの。
でも、
増やすことだけが、
進化ではないのかもしれません。
ときには、
一枚外してみる。
誰かにどう見えるかではなく、
自分はどう感じたのか。
その瞬間を、
まず、
自分の人生として受け取ってみる。
撮りたいなら、
撮ればいい。
残したいものは、
残せばいい。
私も、
これから写真を撮るでしょう。
でも、
残すことだけが、
その瞬間の価値ではありません。
人間は不完全です。
忘れます。
間違えます。
感情に揺れます。
たくさんのバグがあります。
でも、
その不完全な人間だからこそ、
その瞬間にしか感じられないものがあります。
AIは、
それを奪う存在ではなく、
むしろ私に、
もう一度気づかせてくれました。
だから、
そういう意味でも、
AI、ありがとう。
完璧に残そうとすることから、
少し自由になれた気がします。
そして、
そのぶん私は、
今をもう少し、
自分の目で見ていたいと思います。


